chidax2005-05-28

①近頃周りにいる人々(主に4年とM1)が全て猫として登場する。猫といえどもキャラクターは保持されていてファッションなんかも毛並みで表現されている。
そんな僕たちが井の頭公園の橋の上で池に泳ぐツチノコを発見。「これはすごい。」というY氏の発言通り、なんとツチノコが空中を漂い始める。飛んでいるのだ。各メディアで想像に易いツチノコ像の尻尾の部分が異様に長く、何とか写真に収めようとするも叶わず。デジタルカメラにはリモコンの電波が写るのだ。

②よく、飛ぶ夢を見るが。記憶の残る歳からずっと見続けている。いつもモチーフは決まっている。1、電柱の目立つ車通りの少ない路地で飛ぼうと試みる。2、なかなか飛べないので何とか飛べるようにもがく。3、いつのまにか飛んでいる自分に気がつく。4高圧電線の鉄塔が現れて、東京郊外風景によくみる鉄塔の連なる風景の中を電線をすり抜けて飛んでいく。
その浮遊感といったらすばらしいのだ。高校生あたりから徐々にこの夢の回数が少なくなってきて、二十歳を過ぎる頃にはほとんど忘れかけていた。ところがここ2年ばかりの間に再度月に2,3回はこれを見るようになってしまった。まるで決まりきったことのように。必ず月に1度やってくる偏頭痛のように。

夢というのはそのときの身体と精神の状況を無意識下で再編する極めて局所的な記憶の表れと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。①は隣人、猫、井の頭公園ツチノコ、尻尾、デジタルカメラ、リモコンなどの要素に分解でき、一貫して個人的にタイムリーな単語で語られる。②は飛ぶ、電柱、鉄塔、時間錯誤、鉄塔、電線などの要素に分解でき、原風景のような絵と言語に依存している部分が多いように感じられる。
というように夢にはなんとなく二種類があって、タイムリーな文脈の組み合わせによる物語と、時系列に関係ないキーワードで構成される非物語。もしくはその混合。

と、夢なんていう不確定要素いっぱいの現象を分類してみても仕方がないように思ったのが1年前(暇だった。)
問題は夢はストーリーで、要素分解できると考えているところにある。②は非物語であると言ってしまったが、何度も同じ夢を見るというのは既に何かの物語の中の部分を切り取って意味のない状態にしているというだけで物語には違いない。
夢とは物語ではないのだ。単にデータベースとしての要素のつなぎ合わせに過ぎない。
いわばgoogle。「今」とか「今日」とかを検索したら「ツチノコ」とか「鉄塔」とかがたまたまヒットしただけのことだ。しかしその一つ一つの要素にモノローグがあって、人生という大きな物語のデータベースとしての小さな物語の集積が夢だ。

ところで最近はめっきりメロンパンブームだ。